自分の真実を生きること

目次

はじめに

20代、クリパルヨガに出会ってからの私は「自分に正直である」とか「自分の真実を語る」とか「自己一致する」とか、そういうことにものすごく熱心でした。

それが生き様みたいになっていたところもあるし、逆にそうしていなければ、20代の自分の社会的な立場が不安定な時期に自分を保てなかったのだと思います。

30代に入ってからは、そんなことばかりをしていてすっかり日本社会のルールや普通から逸脱してしまっている自分にはたと気づき、それを肯定的に受け止めてそのまま突き進めばよかったのですが、そうもしきれず、社会的な普通に照らし合わすと随分と遅れをとってしまっていて何もできない自分に今更ながら恐怖を抱き、一生懸命社会に戻る努力をしました。

そして、運よくほどよく社会から逸脱しているけれどちゃんと社会でも成り立っている場所に潜り込むことができ、新しい世界や人々にも出会い、自分もみんなと同じように社会生活が送れるのだと感じ始めたころに妊娠、出産。

新しく子供のいる生活というのに入ってみて、改めて自分というものを見直しています。

自分は何を大事にしてきて、ここからも何を大事に、そして限られた時間で残された人生で何をやるのか。

そんな中で最近、自分の主人との関係性の中で久しぶりに一つ心をオープンにして自分の真実を伝えなければならない場面が出てきました。

やってみて、やっぱりすごくよかったのです。

一気に家の中の空気や関係性上に流れるトーンが変わったし、私自身も最近もやっとしていた自分の輪郭が一気にくっきりして、自分という存在が確かなものになったような気がしました。

プライベートなことでもあるので書くかどうか考えたし、こういうタイプの記事を書くと、ときどき人から私が悩んだり困ったりしていると思われてアドバイス的なことをされたりするのが私は心底嫌いなので(じゃ、書かなきゃいいんですけど。というか文脈で自分で答えを出していると読みとってもらえると助かります。)、一瞬悩んだのですが、「自分を生きる」とか「自分の真実を生きる」というのは私のライフワークなので書いておこうと思います。

産後生まれた奇妙な空気

産後、主人との間の空気がどうも奇妙でした。

主人はかなりの割合で子育ても家事もやってくれるし(なんなら私よりやっている)、それで助かってもいる。気遣ってくれていることもわかっている。

だけど、なんだかいちいち主人の言動が癇に障る。

ちゃんとやってくれてるし、ありがとうって言わなきゃと思う。
そして言うのだけど、次の瞬間には次の言動にいらっとしている。

そんなことがずっと続いていました。

こういうのはホルモンバランスの関係で当たり前に起こることかもしれません。

それにお互い睡眠時間が削られている中で慣れない「小さな命のケア」をしなければいけないのだから、当たり前と言えば当たり前です。

産後は夫婦間の関係性が変わるというのもよく聞いていました。

ただ、どうもそれだけではないトーンが流れている。

自分の中で何が起きているのか探ってみるのだけど、いまいち上手く言語化できずにもやもやとしていました。

起きていることを促進するには

こういう時は少し必要なことが起きるスペースが必要だと感じます。

一歩起きていることから離れて、コントロールからも離れて、起きることが起きるにまかせる。

その日一日、それを意識して過ごしたことで、そして夕方ちょうどタイミングよくクリパル・ジャパンの「はじめての人の瞑想」というオンラインクラスでトシさんのリードで瞑想したことでおそらくスペースが与えられたのでしょう。

夜主人が帰ってきてからなんとなく、心を開いて話してみようという気になりました。

この2か月で起きたこと

この2か月で私たち夫婦が乗り越えたのは出産だけではありませんでした。

あまり公の場では言っていませんでしたが、退院の前日に私とNICUに入っていた子供の同時退院が決まったのですが、その日の晩に主人の方の父が急逝するという、まったく予想外の出来事が起きました。

病気をしていたわけでも入院していたわけでもなかったので、家族の誰もそんなことは予測しておらず、誰もが唖然としたと思います。

結果、結婚して10年でやっと授かった子供を家に迎え入れるおめでたムードは一転、喜びとまだ受け止めきれず表現できない悲しみが混在するなんとも言えない空気が流れる場となりました。

とはいえ私も主人も結構落ち着いていたし、お互いの気持ちもケアしたり話したりしながら、主人はしっかりと喪主もこなし、私は家に帰って初日に主人がいないという状況の中でも母の力も借りながらなんとか子供の世話をこなしていたつもりでしたが…。

まあ、そんな簡単には流せなかったみたいです。

本当に起きている事実を話す

主人と話そうとし始めても最初の頃は表面で起きてることしか言葉になりませんでした。

1つずつ、自分の中で起きていることを確かめながら、どうしても主人の言動にいらっとしてしまうことや、あたって申し訳ないと思っていること、でもなんだか理解されていないように感じたり、ケアをされていないように感じていることを伝えていきました。

こういう時には、感情的になるのではなく、相手を責めるのではなく、ちゃんと自分の中で起きている事実を伝え、そして相手にもスペースを与え、ちゃんと相手の話も聞くことが大事だと20代の頃に意識的コミュニケーションやHonest Conversation(誠実な会話)と言われるものに触れてきて思います。

その手のコミュニケーションに凝っていた20代には、こういう会話を主人との間でも頻繁にしていましたが、最近は全然していませんでした(する必要がないだけ私も癒されてきていて、そして夫婦間の絆も築かれているとも言える)。

でも、久しぶりにこうして心の中で起きている普段は言わないリアルな部分をオープンにしていくと、だんだんと主人の方も自分の中で起きているお父さんが亡くなってからの心の揺れについて話してくれるようになりました。

それは至極納得のいくものだったので、聞くことができることでだんだんと私も納得してきていたのですが…。

「とられた」というような感覚

それでもなんだかひっかかるものがあるなぁ、と思っていました。

でもまだそれが上手く言語化できなかったので、一旦そこから離れて夕食を作り始めると…。

ぶわっと一気に何かが出てきました。

それは、自分がなんだか「とられた」ように感じていたこと。

今回は出産予定日から12日出産が遅れましたが、その間のやきもちした気持ちやそこで起きていた自分のプロセス(についてはまた改めて)もちゃんと向き合って乗り越え、3日間続いた陣痛やその間の「自宅か、病院か、帝王切開か、(で、結局促進剤)」みたいな現実的な揺れや、痛みの中でマンションの15階まで階段上り下りするなんていうのも乗り切り。

促進剤の凄まじい痛みも乗り越え。

苦手な病院で過ごす時間もなんとかいい子の顔してこなし。
(もちろん、以前書いたようないい気づきもたくさんあったのですが)

産まれてすぐ子供を胸に抱きたいとか、すぐお乳飲ませたいとか、へその緒をなるべく長くつけておきたいとか、そういう自分の理想も何にも自分の望む通りにならず。
(これはこれでよかったと思うんですけど。その後も理想を追い求め過ぎなくて。)

産後歩きたくなかったのに病院だから仕方なく歩いて、一段と身体がぼろぼろになっているのを感じていても、それでも諸々こなして。

それでも、何の文句も言わず、上手い具合に良い側面を見つけ、やっと子供と一緒に家に帰れる!という時に。

盛大にその大仕事を労ってもらって、家族みんなでお祝いモードを満喫したい時に。

なんでお義父さんが亡くなるの!

一家の主が亡くなるのが大ごとで、家族にとって本当に大きくショッキングな出来事であることはよくわかる。
(本当に突然だったし、主人やその家族ほどではないにしろ、私もショックだったし)

しかし、このタイミングじゃなくてもよいでしょう!
他に日があるでしょう!

今日は私と子供が主役の日なのよ!
初めての我が子を家に迎え入れる、大事な日なの!
そして大仕事をしっかりと労ってもらったり、ああだったね、こうだったねと出産を振り返る、生涯に1日しかないかもしれない大事な日だったの!

なんでそういう日に、もっと優先しなければいけないような大きな出来事が起きてしまうの!

主人やその幸せで楽しい時間をとられてしまうの!

そういうやり場のない憤りのようなものが自分の中から湧き上がってきたことに、自分自身も驚きました。

もうそれは仕方がないことだと納得していると思っていたから。

だって、誰も望んでその日にそうなったわけじゃないし。そんなこと、分かってるし。言っても仕方がないし。

ちゃんと葬儀を終えて帰ってきてから、改めてお祝いしたし。
(でもやっぱり、二人とも疲れ果てていてなんとも言えないトーンでしたけど)

せっかくなのに孫を見てもらえなかったことの方がショックだったし。

でも、奥底に眠っていたそれらの気持ちをちゃんと口にしたことで、そして受け止めてもらったことで、最近自分が感じていたなんだかもやもやした気持ちは消えていきました。

そして、主人との間にあった奇妙なぎこちない空気もすっと流れるようになったのです。

自分の真実を語ることで得たもの

それだけじゃなく、なんだか自分の輪郭がくっきりとしたような感覚。

自分の真実を語ったときに感じるあの感覚を本当に久しぶりに感じました。
出産後初めてとかじゃない、数年ぶりの感覚でした。

そう、私はこういう生き方をしてきたのだった、ということを久しぶりに思い出したのです。

嫁という立場で考えれば、言わない方がよかったり、感じない方がよい感じ方なのかもしれません。

もちろん、別に亡くなったお義父さんを責めたいわけでもなければ、主人が葬儀で地元に帰らなければならなかったことを責めたいわけでもない。

誰も望んでその日に亡くなったわけではなく、そんなことは誰も決められないこと。

それはわかっているし、誰も責めるつもりはないけれど、かといって自分の中で感じたことをごまかす必要はない。

私自身が大仕事をしたことも事実で、それをちゃんと自分だけではなく、主人からも労ってもらいたかったのも事実。

そして、自分がそういう風に感じていることをちゃんと受け止めて理解してもらいたかったのも事実。

そこはごまかす必要はない。

そういうのをちゃんと言葉にし、受け止めてもらうというのをお互いちゃんと繰り返すことで、自分たちは絆を深めてきたし、私は私という存在をちゃんと確かなものとして感じることができていた。

改めて、そういうことを思い出すことができた機会でした。

結果としてやはりとてもよかったと思う。

らせん状の成長

このブログでも何度か書いていると思うけれど、この数年は社会でうまくやっていくことの方を優先していました。

自己一致していなくても、世の中の多くの人がやっているように表面的に上手な社会的対応というのを身に着けようとしていた。

そういうのは確かにこの社会で生きていく中では大事な知恵やスキルの一つで、やってみてとてもよかったと思うけれど、それだけではだんだんと自分や心を失くしてしまう。

どちらかが正しい在り方ではなく、どちらもできるようになること。

そして社会的な対応を理解し、身に着けた上で、もう一度自己一致した在り方に戻ること。

こういうのを何度も繰り返しながら人はよく言われる「らせん状の成長」をしていくのかもしれません。

そろそろ、もう一度自分が大事にしてきた「自分の真実を生きる」ような在り方に立ち返る必要がある。

そんな風に感じている最近です。


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